放してくれと言ったのに放してくれなかったのは、ブタペストの路地に立つ街娼のひとりだった。欧州を旅して回り、風に吹かれるままハンガリーにたどり着いた2日後のことだった。
誘いを断ったが、ティーナは意味が通じないというしぐさをした。嘘に違いなかった。 通りでは怪しげな英語が交錯していた。
「カモン」 「ハウマッチ?」 「ナットイクスペンシヴ。コンプレックスセーックス」
娼婦たちは口と手と腰を使ってサービス内容を実演していた。一番熱心だったのがティーナだ。オレは娼館へ引きずられていった。
冬が近づいていた。ブダペストは全体的にすすけた街で、歩道の無用な白線は実は鳩の糞だった。香水の香る路地はうす暗く、並ぶ娼婦が白黒映画に見えた。下品な笑い声をあげるのもいて、うっかりすると取り返しのつかないことになりそうだった。
オレは好みの女を探そうと路地を端まで行って、戻って来たところだった。極度の緊張で目が寄っていた。もうほとんど鼻先しか見えなかった。 意欲も夢も薄れて、このまま宿に帰ろうかと考えているところでティーナにつかまってしまった。
化粧の濃い女だった。隈取した目が歴史教科書の古代エジプト人みたいだった。化粧を落としたほうがむしろかわいい。名前を聞かれたので、「てふてふP」と答えた。 「てってっぴぃ?」 彼女にはてふてふの発音が難しいらしかった。彼女いわく、「口も手も本番もありのコンプレックスセックスがこのお値段、絶対に見逃せないんじゃない?」と。「明朗会計だから心配ないよ」と。耳元に熱い吐息をかけて、「逃げたら許さないから」なんてことも。
おっかなくなって立ち去ろうとしたが、つかまれた手がなぜか抜けない。自分の手がどこにあるのかもよくわからなくなっていた。見るといつの間にか彼女の胸にさわらされていた。ふわふわと柔らかいのはノーブラだからだ。料金を請求されるかもしれない、と焦った。
「セクハラやめて」と間抜けな指摘したとたん、固く腕を組まれてしまった。むやみに抵抗すると関節がはずれそうな位置だった。足はもう自分の足じゃなく、無力に引きずられていくだけだった。
ティーナは路地に面した小さな建物の階段を上り始めた。コンクリートのそっけない造りはタイルの1枚もなく、あばら屋と言ってもよかった。路地はそんな建物ばかりだった。
建物の2階は横長になっていて、カーテンでいくつかの部屋に仕切られていた。寝台列車のようだった。
漏れてくるあえぎ声となにか平手を打つような音を耳にして即、帰りたくなった。引き返すのはまだ遅くないはずだった。
ティーナにいとまを告げ、印象を良くするために「サンキュー」ともつけ加えた。うわずった声がみっともなかった。ティーナはまた英語がわからないふりをした。
あいにく奥の部屋が空いていて、問答無用で押し込まれた。オレに構わずカーテンを引くと、ティーナは脱いだ。むき出したのは下半身だけで、オレを誘惑した胸は依然セーターの中に隠されたままだ。 黒いだぶだぶのセーターの下に、白い肌。 太もも一帯に興味を惹かれたものの、まじまじと見るのは恥かしいし、その一方で目をそらしては悪いような気もしてうろたえた。結局オレの視線は無意味な方向に向いた。
ティーナはオレにも脱げ、と身ぶりで示したとたん、なにかハンガリー語で笑いながら部屋を出て行った。 まさかヒモを呼びに行ったんじゃあるまいな。
オレは呆然とベッドに腰を落とした。スプリングが常識では考えられない音を立てた。明日か遅くても明後日ごろには壊れるんじゃないか。赤い電球の下で小さな化粧台がまがまがしかった。 香水、マニュキアとポーチ、小さなクマかリスのぬいぐるみが置かれていた。ディズニー・キャラクターのコピー、という感じだった。 香水をかいでみるとティーナの香りとは別物だった。よく見るとベッドのシーツは真ん中だけが整えられあとはしわになっていた。しかも、少し湿っぽい。 汗なのか。 汗ならまだましだ。
ティーナが避妊具を手に帰ってきた。ヒモはいない。ほっとした。彼女を抱くのに危険はないのかもしれないが、調子に乗りすぎるのもよくない。一瞬先は闇とも言うし、こんなに緊張してちゃどっちみち無理だ。 それになんだか腹も痛い。
オレは立ち上がった。ゴー、ホーム。帰る、というつもりが焦燥のあまりとちった。これじゃ、帰れ! だ。あわてて言いつくろうとしたが彼女は頓着せず、心配ないよ、というふうに避妊具をふって見せた。
下手な芝居にいちいちつき合っていられない。ティーナのそばをすり抜ける際に腕を引かれたが、静かにかつ毅然と振り払った。
「行っちゃうの?」 寂しそうな声がオレの胸を刺した。ついふり向いてしまった。彼女は両手に顔を埋めて泣いていた。強引さはどこかへ消えて、黒いセーターの衿からのぞくうなじがいかにもか細い。むき出された彼女の股間は空しく、いたたまれなくなってさらに視線を落とすと足元に避妊具がぽつん、と。
「わたしじゃ、イヤ?」 こんちくしょう、わかった、了解、脱ぐよ、一丁やってやらあ。 とは言え、女の前で裸になるなんて初めてだ。この場合どこまで脱げばいい?
とりあえず重い毛布地のコートを脱いで、床に放った。続いて三重に着ていた上着も全部はいだ。ズボンも、よれよれのブリーフも、靴下までも。
部屋に暖房の設備はなく、全身の皮が縮まったが萎縮している場合ではない。おっしゃあ、どんと来い。
ティーナの笑顔が戻った。泣いていたのが嘘だということを隠そうともしなかった。声を立てて笑い続け、バスタオルでオレの上半身をおおってくれた。どうやらオレは脱ぎすぎたようだった。
「10分で済ませてね」 「短すぎ」 オレの抗議を黙殺し、彼女はベットに寝転んで足をぱっくり開いた。 チキンの丸焼きとそっくり、やる気なし。 てっきりあれやこれやと世話を焼いてくれるものだとばかり。コンプレックスセックスとやらはどうなった?
そのときまで、オレは女を抱いたことがいっぺんもなかった。方法がわからない。
おそるおそる彼女を抱きかかえてみたものの無反応。湿っぽい抱き枕という風情で感慨もなにもない。これ以上もたもたしてたら童貞だということがバレちまう。
やけくそで腰をふるとなぜか腹を叩きつけたようになってしまったうえ、彼女の股関節がゴキリと左右に広がった。 ベッドのスプリングはどこかが折れて、明日、確実に壊れる。 彼女が叫び、オレはあわてて腰を引いた。無様にも尻は天井を向いてとんがり、あろうことか屁が。ごまかしようがない。死にてえ。死んで夜空の星になりてえ。じゃなけりゃ、このままティーナの腹上で縮まり、極小になってヘソの奥のゴマに。
オレを見上げる彼女の視線はいぶかしげで、ついで浮かんだのは、からかうような笑み。穴があったら入りたかった。穴はあったがしくじった。
オレは身を離した。今度こそ本気で帰ろう。でもお金はちゃんと払おう。思わずため息が出た。ティーナがあわてて起き上がりオレの肩を抱き、顔をのぞき込んでささやいた。ハンガリー語だったが、なぜか理解できた。気にしないで、とかなんとか。 かたくなだったオレの心がゆるみ、危うく涙をこぼすところだ。
だんだん調子を取り戻してきたオレは、彼女の胸に触りたいと思った。彼女はいまだセーターを脱いでおらず、形すらおぼろげだった。彼女のすべてを目に焼きつけておきたい。だが上着を脱いでもらうのには追加料金が必要だった。
彼女は意外に肉付きがよかった。 反面、胸は思ったより小さかったが、乳首がかわいらしかった。
手を伸ばすと彼女は身をひいた。触るためにさらに課金。胸元と首筋に香水の苦味があった。上にまたがってもらうとそれも料金に追加された。
小柄なのにあんなに重いとは思わなかった。腹がつぶれた。さらに下方は最後までつぶれたままだった。避妊具が無駄になってしまった。それでもオレは満足だった。
オレたちは身支度をして部屋を出た。会計は一階の台所らしきところですることになっていた。彼女の示した料金にインチキはなく、ベッドで聞いた通りの金額だった。オレはポケットからよじれた札を出した。釣りは受け取らないつもりでいた。そのための英語もちゃんと思い出してあった。
釣りは取っといてくれ。 そう言えば少しは彼女も見直してくれるだろう。
4枚の札をしばらく眺めてから、小銭も残らず出した。小銭だけじゃなく、ポケットに入っているすべての物を出すことになった。
昼間観光した美術館のチケットや、手帳や、街中にゴミ箱が見当たらなかったために突っ込んでおいたゴミなどをテーブルに広げた。
コートを脱ぎ、ジーンズのポケットを裏返し、靴下まで脱いでテーブルに置いた。
ない。ほかに所持金は、ない。祈るような気持ちでもう一度ティーナに値段を聞いたが、間違いではなかった。
足りるはずだった。
追加料金がかさんでいた。ベッドでちゃんと計算したつもりだったのに。算数が苦手なのをすっかり忘れていた。
「ビッグ、プローブレーム、てってっぴぃ」 どことなく物悲しい、哀れむようなティーナの声だった。血は高速で流れ、目もかすんできた。床が揺れていた。口から魂がすべり出ていく。このままどこかへ飛んで行きたかった、どこまでも。
「これから銀行へ行って金を下ろしてくるから」 自分の声はまるで他人の声だった。 「こんな真夜中に開いてるわけないでしょ」 「なら宿に戻って友人から金を借りてくる」 夢中でティーナのそばを通り抜けようとしたが力強く押し返された。
騒ぎを聞きつけてほかの女たちも集まってきた。退路を絶たれたオレは、台所の奥からスキンヘッドの大将が出てくるのを覚悟した。眼光鋭く、二の腕に墨。
だが、実際に出てきたのはほうきを持った老婆だった。掃除のおばさんらしく、白髪で腰が曲がり始めていた。 そのくせやたら威圧感があった。ほうきの柄にドスでもしこんでいそうだった。
「どうかしたかね?」 老婆がハンガリー語で聞いた。ティーナが事情を説明した。老婆は前かがみにほうきにもたれて、困ったね、という顔をした。 「この日本人、どうしようね?」
オレはほとんど死んだも同然だった。早いか遅いかの違いだった。 死ねば人は塵[ちり]に返るという。遠い異国で微塵になったオレを風が吹き上げ、空の向こうにまで運んでいくのだろう。星のきらめく宇宙は静寂で、きっとティーナの香りに満ちている。
気がつくと、オレはティーナの胸の中にいた。彼女はオレを抱きしめ、背をなでていた。 「また会いに来てくれるんなら、許してあげる」
掃除のおばさんはおらず、集まっていた女たちも消えていた。 オレはテーブルにぶちまけた中身をひとつひとつポケットに戻し始めた。ティーナが手伝ってくれた。彼女が差し出すチケットや手帳を機械的に受け取ってポケットに押し込んだ。
靴下を受け取ろうとするとティーナが引っ張った。オレは引っ張り返した。ティーナが引っ張り、オレも引っ張り続けた。目はまだよく見えず、指先にしびれが残っていた。
やがて静寂の世界に音が戻ってきた。 「イッツマイン、イッツマイン」 ティーナがくり返していた。よく見るとオレが手にしていた靴下は彼女のぬいぐるみだった。ベッドサイドに置かれていたあのクマかリスの。 ティーナが指さした先を見ると、オレの靴下はコートのポケットから垂れていた。
ティーナは玄関口まで見送ってくれた。オレだけドアから外に出た。 二度と来ることはあるまい。 階段を一段下りるたびに彼女が遠ざかっていく。
体には彼女の香水が移っていた。何か言いたかった。何かを伝えたかった。あんなに世話になったのに、料金もまけてもらったのにオレには返すものが何もない。
ドアの閉まる気配がした。 こわばった体に鞭打ちふり向き精一杯の声で、叫んだ。
「ラブユー、ベイビー」 あながち嘘でもなかった。 ティーナはドアのすき間から束の間オレを見つめ、手に乗せたキスを放った。
ドアはすぐに閉じられ、立ちつくすオレにはキスを返す間もなかった。
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