どうしてオレがしゃしゃり出ていくことになったのか、その時が来てもわからなかった。 浮気をしたのは、さつきだ。 ならば、彼女が問題のケリをつけるべきだった。
さつきを抱いたという男をオレは市の港湾に呼び出した。小型フェリーの発着場で、昼間は送迎のバンやタクシーで込み合う。釣り人を見かけることはほとんどなく、ゴミくずの浮いた海水は底までにごり、たぶん、ろくでもない魚しかいなかった。 夜には完全にひと気が絶える場所だった。 1、2本、街灯の球が切れていた。 まだ朝日が昇るまえで、空には星が光っていた。
男は素直にやってきた。ひと目の届かないところに連れて行き、正座させた。物置なのかボンベ室か、小さなコンクリートの建物の陰だった。
オレはうなだれているやつの背後に回ってプレッシャーをかけた。そこまではよかったが、その後どうしていいのか途方にくれた。
オレは人を殴ったことがなく、蹴ったこともなかった。
男はびびりまくっていた。オレはそれ以上だった。電話でオレは威勢がよかった。ぶち殺す、とやつを脅しておいた。尻に噛みついてやるから覚悟しておけ、と怒鳴りつけてあった。念のため、目のまえの男にオレは尋ねた。
もしかして、クソしてきたのか?
男はだまったままうなずいた。 尻に噛みつけるわけがなかった。
さつきはオレが初めてつき合った女だった。 いっしょにいると安物の茶でも高級抹茶に感じさせてくれた。 煙草の煙でさえも浄化された。
およそ24時間まえ、オレは彼女と月夜のドライブを楽しんでいた。オレはくわえ煙草で軽自動車のハンドルを握り、さつきは助手席でオレのギャグにときたま笑い声を立てていた。
街の雑踏から離れた農村部は静かで、視界が広かった。白い月が出ていたおかげで夜空が蒼く見えていた。夏も盛りを迎えむし暑く、エアコンが壊れていたからなおさらだった。
窓から吹き込む空気は草の香りがした。オレがくだらないギャグを飛ばしていると、助手席の彼女が口をはさんだ。
ねえ、Pちゃん……話があるの。
てっきりギャグを言うのだと思った。そろそろオレのギャグに反撃してきてもおかしくない頃合いだった。
わたし……寝ちゃったの……Pちゃん以外の男と。
握っていたハンドルと車体が分離したようだった。 ハンドルを握りしめたままオレはひとり、夜空に浮かんでいた。雲ひとつない快晴で星がよく見えた。 エアコンの効かない車内は暑くて不快だったが、空は涼しかった。 涼しさを通りこして寒くなってくると、いつのまにかオレは車内に戻っていた。
オレの車は対抗車線を走っていた。ド田舎で向かってくる車が一台もないのが幸いした。 <さつきが顔をおおって泣いていた。 オレは車を路肩に寄せた。
さつきはほとんど息つぎをすることもなく謝っていた。 いや、いいんだよ、慰めるつもりでオレは言った。 ひどい、と彼女はさらに泣いた。 それだけでは満足せず、ダッシュボードに頭を打ちつけ始めた。こっちの頭が変になりそうだった。
さつきを抱きよせ、落ち着かせてから、言った。
そいつとはもう会うな。 そんなことできない、いい友達でいたいから。
あいつのことが好きなのか? なんとも思ってない。 じゃあ、どうして抱かれたりしたんだよ!? ひどい! そう言ってまたダッシュボードに頭を打ち始めた。オレもハンドル相手に同じことを始めた。とっくに頭が変になっていた。
浮気の相手は、さつきが昔つき合っていた男だった。1ヶ月ほどまえに北米留学から帰ってきやがっていた。男が帰ってきたとき、友人として会いたい、とさつきに連絡が来たという。 誘われたさつきはオレに尋ねた。
会いに行ってもいい? おまえの好きにすればいい。
さつきがどこへ行くか、誰と会うか、いちいちオレに聞かずとも自分で決めるべきだと思っていた。 会うな、と言ったところで心の中では会いたいかもしれないし、隠れて会うことだってできる。彼女の行動を制限したところで無意味なのだ。制限することなく、強制することもなく、ただ彼女を信じていればよかった。
さつきと北米野郎は何度も会っていた。会うたびに求められ、そのたびに断るのだがしつこく誘われて、ついにホテルに行ったという。
結局さつきが自分でまいた種だ。オレのことが好きじゃなくなったのならしかたがない。だが、そうではないと言うのだからわけがわからない。男に誘われて、彼女がうなずいて、そこにどうしてオレが出てくる? なぜオレに許しを乞う必要があった? 少なくとも額でダッシュボードを壊す必要はなかった。
ひとしきりハンドルに頭突きをかまして冷静になったオレは、さつきに電話をかけさせた。 オレは電話をひったくって北米野郎が出るのを待った。真夜中だと言うのにたった2回のコールでやつが出た。英語でしゃべられたらファック・オフと言うつもりだったがあいにく日本語だった。
さつきだと思い込んでいるやつの声は明るかった。その能天気な声を恐怖のどん底に落とすべく、オレはわざと感情を殺した低い声でゆっくりと、言った。
オレが誰だか知っているな? てふPだ。 電話の向こうで相手が凍った。オレのセリフがビートを刻んだ。 殺すぞ、おら、何か言うこたぁねえのかよ、なめんなよ、おら、聞こえてんのか、おまえに明日はないんだぜ、おら、おらおら。
翌日オレは仕事が入っていたので、呼び出すのは朝の5時にした。 必ずひとりで来い、そう言い捨ててオレは電話を切った。さつきはまた泣いていた。オレは泣くひまもなかった。せめて文句のひとつでも言ってやりたかったが、彼女の思いつめた目を見るとできなかった。
さつきが男と会えば浮気する、その可能性を考えなかったわけじゃない。さつきの勝手にするべきだとオレは考え、彼女は勝手にしただけだった。なら文句の言いようがない。 さつきは悲嘆にくれる女を演じた。
いやな思いさせちゃったね。 多少はな。 死ぬとどうなるのかな? 目を離すと妙なことをしそうな気配があったので、その日は丸一日彼女と過ごした。
午前3時に彼女を自宅に送り届けてオレは現場に向かった。 低い身長を補うための威圧的な動作や、立つ位置を頭の中であれこれ検討した。やつの目のまえで煙草に火をつけよう。声にはドスをきかせて、街灯の光を背面に演出効果を出して……。
だがあまり役に立つと思えなかった。一睡もしていなかったので頭の調子が悪かった。一日中走り回ってガソリンも残りわずかだったが、給油している心の余裕はなかった。
誰か別の人間になりたかった。強面の俳優に。ブラッド・ピットも悪くないが、ショーン・ペンなら申し分ない。 だが、そんなメルヘンにひたってみたところで何の意味もない。
少し離れた場所に車を置き、港湾までは歩くことにした。男と会ったあと、おんぼろの軽自動車に乗り込んでキーを回すのはどうも絵にならない。徒歩でその場を立ち去るのがよかった。
時間より30分も早めに野郎は姿を現した。 でかかった。 幅も高さも奥行きもオレの倍以上あった。 違いますようにと祈りながら確認するとやつだった。
野郎はまえもって用意していた言い訳を並べたてた。もうやるしかなかった。いつの間にかその時が来ていた。タイムテーブルは勝手に進行し、オレはテーブルの上の駒にすぎなかった。
黙って煙草に火をつけた。男はホームベース型の輪郭で、ワイヤフレームの眼鏡が小気味よかった。ひょっとしたらオレより美男子かもしれなかった。
うなだれるやつの胸めがけて吸い差しをはじき飛ばした。 ついて来い。
予定していた位置に正座させたまではよかったが、殴るのも蹴るのも噛むのも気が進まなかった。暴力ざたには慣れておらず、力の加減なんてわからなかった。 新聞ではよく、暴行のすえ死亡、なんていう記事が載る。それだけはごめんだった。 だから代わりに説教をたれた。
本来ならオレが出る幕なんかじゃねえ、彼女はオレのペットじゃねえ、さつきはなぁ、自分自身の判断で動いてんだよ。オレたちはなぁ、天使じゃねえんだよ! うんぬん。
言っててわけがわからなかったが、とにかく胸にたまっていたことだけは出し切った。本当はさつきにこそ言ってやりたいのかもしれなかった。 バンバンバンと言葉を放って5分ほどで説教をしめた。 てめえは日が昇るまでそこで座っていやがれ、と放置しておいた。 離れた場所からこっそり見ていたら、本当に朝日が昇るまでそこに正座していた。
後日、彼女から聞かされた。北米野郎がオレに感謝していたという。目が覚めた、もっと早く出会っていれば僕らいい友人になれたのに、などと抜かしていたらしい。なめられたもんだ。やつに負けたような気さえした。やはり尻だけでも噛んでおくべきだった。
浮気にまつわるトラブルがその後も1、2度あった。最終的にさつきはオレをふった。オレの顔を見るのが辛くなってきたという。仕方がない。さつきがそう言うのなら。
彼女と別れて以来、オレは女がわからなくなった。いや、そうじゃない、初めからオレが女のことをわかっていなかった。 何も。
|