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ゲテモノ缶


1、2ヶ月に1回の割合で訪れる不眠の夜を迎えて、羊のカウント、ストレッチ、読書、ワインをいつもの順に試してみたが、いずれも無効だった。


きれいな人がひざ枕でわたしの髪を優しくなでてくれれば快眠直行だろうが、これはいまだに仮説の域を出ない。目を閉じて思い描くだけではどうしようもなかった。むしろ逆の効果が表れて苦しい。


交際中の相手でもいれば、とも思うがはたして羞恥心の強い自分が言い出せるか疑問だ。たとえ誘いかけられても気恥ずかしさから辞退するのは目に見えている。こんな性格だから恋愛経験は皆無だった。


たとえば何かのきっかけで魅力的な女性と知り合ったとする。気持ちがひかれたとたん、極度の緊張と興奮で気力はまたたく間に空っぽ。行動に移すこともなく時間だけがもんもんと過ぎていく。


夜は寝つけず昼は注意散漫、最終的に入浴するのもおっくうになり、生活がすさみはてる。


そして彼女が恋人を作るなり結婚するなりしてわたしの出番が失われると、平安と欲求不満が復帰して、同時に生活のリズムも取り戻せる。



一体なんだこれは。どうしてこうなってしまった?  厳格な教育?  禁欲的な生活?  威圧的な姉妹?


実際には両親は放任に近かったし、寺で座禅を組んだことすらない。姉と妹はどこをとっても標準。とうの昔に原因を特定するのは放棄した。
なんのなぐさめにもならない。
こんな性格になったのも生まれつきだ。


女だけがすべてじゃない、人生に必要不可欠な存在でもないと自分に言い聞かせつつ、いつもどこかで彼女たちにあこがれている。そして眠れない夜がめぐってくる。


オーディオのベートーベンにあわせてイコライザーが波打ち、窓にかけたカーテンはふくらんだり縮んだりしていた。


残暑も日々弱まって、風は涼しさと寒さの境にあった。だが眠れないもどかしさと雑然とした思考で体が汗ばみ、ぬくもったシーツが不快だった。


ポジティブに行動することは不可能で、「積ん読」中の本を片づけようとページをめくっても意欲がわかず、集中力をキープできない。


時計に目をやるたび針は進み、明朝の出勤時刻から差し引いた睡眠時間を考えて焦燥にかられる。神経が消耗していくだけの空疎な時間だった。


高ぶった神経を静めようと外へ出た。
夜気は予想以上に冷えていて、長袖でなければ風邪をひいてもおかしくなかった。黄色に点滅する信号機と街灯にそめられた空気が鼻の奥を冷やした。
車の走らない車道が2倍の広さに感じられた。
夜気を吸い込むうちに寝つけない不安が消えていった。


ひとりベッドに転がるのでは心理も暗くなって当然。
習慣を絶対の規則のように錯覚し、逸脱することが最悪の事態だと確信するにいたる。だからいら立って規則に戻ろうと無益な努力をする。だがなかば開き直って習慣を破れば、その強迫観念から逃れられる。


外を歩き回っているうちに、自然に体が睡眠を要求してくるようにも思えた。万が一、そうならなかったとしてもどうせ死にはしない。大学のころは死にそうになりながらも、徹夜したものだ。


今抱えている患者に臨月の妊婦はおらず、明日神経をとがらせることはなさそうだった。午前の診療時間が終われば、1、2時間程度を仮眠にあてることもできる。思考を整理するとだいぶ気が楽になった。


1ヶ月前に通勤時間が延びるのを覚悟の上で都心から離れたマンションを購入したが、近所にこれほど光が少ないとは知らなかった。
最上階に位置する自室のベランダからは遠く夜景が望める一方、眼下には競技場が併設された公園と造成中の土地が大部分を占めている。


付近に点在する一戸建ての灯は落ち、アパートの廊下の光も車道を照らすまではいたらない。アスファルトは街灯のオレンジ色と黒い陰のグラデーションになっていた。


自室を出てからは、コンビニへ商品を搬入するトラック以外の車両を見ていない。コンビニはだいぶ先の方で真っ白に輝いていた。コーラでも買おうと思ったとたん、店の数十メートル手前に立つ自動販売機に気がついた。歩道のわきにコンクリートの台をしつらえ、電源を引いて設置してある。


自動販売機は真っ赤だったが期待したコカ・コーラは置かれておらず、代わって奇抜な飲み物が2種類、上下2列に10本ずつディスプレイされていた。価格はどちらも600円と高価だ。


母乳がビフィズス菌、オリゴ糖、タウリン、ビタミンK、DHAほか有益な成分を含んでいることを考えれば、上段に並べられている「母乳ジュース50」なる商品は、清涼飲料というよりむしろ医薬部外品ということになりそうだった。


どうせ牛乳に含まれる成分を調整し、相当のミネラル、ビタミンなどを添加しただけだろうが、もし人間から搾乳したのであればこれは興味深い。


下段の「愛液スカッシュ」は名称から炭酸飲料だと思われた。性交時、膣からあふれてくるバルトリン氏線液が主成分なのだろう。生ぬるい塩味を連想させる芳香をともなうのが普通だ。
どんな味なのか「母乳ジュース」と同様に激しく興味をかきたてられた。早くも塩味のある炭酸が口の中ではじけた。


車が一台、通り過ぎた。反射的にわたしは身をひるがえした。見られたか?  顔がほてる。自動販売機に見とれていたことを痛烈に自覚した。


羞恥心がわき起こったが、われに返ったせいで興味が薄れることはなかった。


自販機から一歩離れるたびに欲求は倍加した。飲みたくて飲みたくて、飲んでみたくてたまらない。


だが、コインを投入している自分の姿を想像できない。「母乳ジュース」を買うなど到底無理だ。女がほしいのに言い出せない、飲みたいのに対価を支払えない。


自分の不甲斐なさに歯をくいしばった。葛藤は筋肉と皮のすき間にかゆみを走らせているようだ。


自動販売機の商品を目にした際、食道に落ちた心臓は胃を通過し、腸を回って股間に到達。強い脈を打っている。人通りのない夜が陰部の興奮と好奇心を増長させた。


さっきの一台以来、車は通らない。オレンジの光が落ちる黒いアスファルトだけが遠く続く。どこか草むらで虫が鳴いている。
コンビニはまだ先で、店内から見られたとしてもわたしだとはわからない。男女の区別をつけることさえ困難なはずだ。
あと、打ち勝つべきは己の羞恥心。これはひとつの修行にならないか。輾転[てんてん]反側する夜と決別するための、小さな一歩にならないか。なる。
わたしは来た道を引き返した。


患者を診察する過程で乳房や陰部は連日目にするが、乳幼児期をのぞいてそれらを口に含んだことは、切望しているにも関わらず、ない。
医学部時代に漠然と抱いていた、医者になれば看護婦の中から誰かひとり、という希望も本業についてから非現実的な夢だとわかった。
職を得たからといって性格が変わるわけでもない。


「母乳」のあるいは「愛液」の味を思っただけで、2年前からクリニックで働いている若い看護婦の裸が夢想された。
年齢不相応の妄想に、一応自身の幼稚さをいましめはしたものの、欲求と好奇心は消えなかった。
安っぽいコーラの主成分であるブドウ糖液糖より、「乳」と「バルトリン氏線液」の方がたまらない。


自動販売機のまえで選択に迷えば、たまたま通りかかった誰かに見られる可能性がある。自動販売機に戻るまえに押すボタンを決めておかなくては。どちらにする?


「愛液スカッシュ」には正直あまり食指が動かない。炭酸飲料なのはいいとしても、少々生臭さが気になった。訪れる患者の陰部はもちろん清潔だが、それでもやはり臭気がある。
それも各人微妙に異なっている。産婦人科医として嫌悪を感じたこともなく、むしろ気に病んでいる患者に対しては不必要だと言い聞かせることもしばしばだが、飲料として口に含むには抵抗があった。


もちろん商品として開発したからには口当たりはいいだろう。だが合成されたものではなく、人体からじかに抽出したものだったら?  しかも数人分が混合されているとしたら?


同じ金額なら「母乳ジュース50」がより好ましく思えた。
患者が乳房にさりげなくすり込んでくる石鹸や香水の香りは心地いいし、あの触感が嗅覚にも作用してなにやら柔らかさが期待できそうだ。
まあ、勘違いであるにしても赤子はうまそうに飲む。この肌寒い夜にはもってこいの飲み物だ。


ダミー缶に写真はなかったが、それは公序良俗に配慮したからであって、取り出し口に落ちてくる本物の商品にはきっと印刷されている。


写真はやや大きめのバストがふたつ、色素の明るいとがった乳首もあらわに決まってる。
乳房、乳首および乳輪が成長しやがて母乳が分泌されるのは妊娠後のことだ。
したがって缶に印刷されている乳首が出産前の薄い色をしているわけがないのだが、これはひとつのイメージ広告であり、男性が思い描く出産経験のない乳首でなければならないはず。


まあ、思い違いであるにしても、飲み終えたらクリニックの机上に飾るのも面白い。だが看護婦に対するセクハラになりかねないとあきらめた。


すばやくコインを入れ、ボタンを押す。機械が指示にしたがって内部の機構を作動させる。だがその反応がじれったい。こっちが焦っていることがわからんのか。


ようやく、重い、それこそ大きめの乳房を思わせる音を立てて「母乳ジュース50」が落ちてきた。
缶の表面にはバストの写真も絵もなく、きれいにレタリングされた商品名と成分表示があるだけで、面白みが半減した。だが母乳は体にいい。
「愛液スカッシュ」に硬貨を費やすより理知的な判断だった。


すみやかに自動販売機のまえから移動し、暗がりでプルタブを押し開けた。指が震えた。
意識が現実から遊離しはじめる。口いっぱいに温かいミルクが。あの、きめの細かそうな肌の、なめらかで果てしなく柔らかい、揺れる尻も、くびれた腰とへそに太もも、たえず夢に出てくるすべてが脳裏の閃光に浮かんで消えた。


だが、口に含んだとたんふき出した。冷たい鉄のような液だ。何の成分か知らないが歯がきしきしする。普通、母乳は人肌の温度だ。粉ミルクを使う母親でも人肌に温めてから乳児に与える。


急いで販売機の表示を見直した。ボタンのすべてにともった「COLD」の青いランプを見落としていた。涼しすぎる風が吹いて首筋に鳥肌が立った。


「乳だったらなぁ、ホットにしておけよ、バカやろう!」
自動販売機のコンプレッサーがうなり始めた。
ああ
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