睡眠不足のもやもやとした頭でモノを買いそろえた。この強力な殺虫剤とペンライトをもってゴキブリどもを根絶やしに。夏になってからどうもゴキブリが台所周辺を徘徊しているらしいとは、数日前、夜中に目をさましたときにわかったことだ。
扇風機のスイッチを〈強〉にしたところで、生ぬるい空気がかきまわされるだけのむし暑い夜だった。窓を開けていたのにまるで風が通らない。汗をたっぷり吸いこんだTシャツのえりが不愉快に冷たかった。
エアコンを買わないといけないなとねぼけた頭で考えていると、扇風機の回転とは別の音が部屋のどこかでして目が開いた。闇の中、ごくかすかだがステンレスの流しの上をなにか虫が歩いているような音がする。
ゴキブリか、とちらっと脳裏を横切ったかどうかもわからないうちに体が飛び起きていた。8畳1ルームの小さな部屋で寝床は台所から3歩と離れていない。ゴキブリが布団をはいまわっている、天井のすみにはりついていたのがぽとりぽとりと落ちてくる、そんな妄想にむし暑いどころの騒ぎではなくなった。
よりによって蛍光灯のスイッチは台所にしかなかった。おそるおそる暗い部屋を横切った。踏んだら、と思うとそれだけでもう生々しい感触が足の裏にある。中途半端に硬い殻がつぶれて、あふれた汁が土踏まずを濡らすかも。足を踏み出すのにも勇気がいった。
小学生のころにも一度、ゴキブリを殺した。扇風機にあたりながらテレビを見ているときだった。視界のすみに動くものをとらえたので目をやると、黒いゴキブリがこちらへ走ってくる。逃げればよかったのに手近にあった本でつい。
本を通してゴキブリのつぶれた感触がはっきりあった。にごった汁が飛び散って、やめておけと思いながらもなぜか鼻を近づけてみた。他のどれとも比べようのない悪臭に号泣した。
思い出すと今だって叫びたい。思い切り叫んで叫んで、家中の荷物をいっさい一切合財おっ放り出したい。あの臭いがもう部屋中に充満している気さえする。
乾いたつばを飲みこみ飲み込み、ばかげた衝動をおし殺す。 暗い中手探りでスイッチを入れる。
白い光にまず嘆息し、床のどこにもゴキブリがいないのを知って安心し、首をのばして流しをのぞいてみると、1匹、いた。
長い触角を右に左にふっている。まだ成虫になっておらず背をおおう羽がない。よろい戸のような虫の背はつややかに赤黒い。そして頭だけかすかに黄色い。
台所は男のひとり暮らしにしてはこぎれいな方だ。残飯は処理してあるし、汚れたちゃわんも残していない。それなのに一体どこからわいてきやがったのか?
洗剤を取りゴキブリめがけて液を飛ばす。2度外したあとにようやく命中し、死ね死ね死ねといいながら洗剤をかけ続けた。
ぬるぬるの流しの中を、ゴキブリは6本の足で逃げ回った。昆虫特有の硬い爪がステンレスをひっかく。脳みそが内側からひっかかれているみたいで、もう気が狂いそうだ。
さいわいにして洗剤にまみれたゴキブリは、すぐに動かなくなった。どうするかと悩んだところでぬめぬめの死骸をそのまま放っておくわけにいかないのは明らかだ。
何十枚も引き抜いたティッシュで死骸をつかみ、ティッシュごと廊下に放り出す。シャツが重く感じるほど汗をかいていた。肩がはり、ふくらはぎの筋肉がぴくぴく脈をうっていた。
ゴキブリは殺したはずなのに音はやむことがなかった。もしかしてお隣の音が漏れているのかと思ったがそうではなく、出所はやはり台所付近のようだった。 父が言っていたことを思い出す。 「1匹見つかると、必ずほかにも何匹かいる」 嫌なセオリーだ。
電気をつけて流しをのぞきこむ。いない。下の戸棚か? 缶詰や調理油などを置いてある。あれはもう食べられない。いつでも逃げられるよう十分に距離をおいてから、流しの下の扉に手をのばし、開く。 目をこらしても、缶詰、油、水が落ちていく排水パイプがあるだけで動くものはない。耳をすますと音も聞こえなくなっていた。
ゴキブリホイホイをしかけたが、3日たってもゴキブリは1匹もつかまらず音だけが続いた。 毎晩扇風機の音の奥にかすかに聞こえてくる。遠慮がちに、それでいてわがもの顔で歩く虫独特の足音。耳について離れない。毒エサの効果もまったくない。
むし暑さと気持ち悪さが重なって、安眠は昔の話になってしまった。どうにかしないと病気になってしまう。
音は夜中にだけ聞こえてくるが、もしかしてゴキブリがはっていたんだと思うともう昼間でも台所に立つ気が起こらず、あの日以来ずっとコンビニ弁当を食べているしまつだ。
そして父が言っていたことを思い出す。 「ゴキブリにも頭がいいのがいて、ゴキブリホイホイになんかつかまらずにちょろちょろしている」 まさかウチの流しにゴキブリの王様なんてのがいるんじゃあるまいな、と。
いくらなんでも考えすぎだ。現実は小説じゃあない。 だれかの短編に、日のささない地下室でねずみが繁殖している、という話があった。突然変異で目のないねずみや足の退化したねずみがうごめいていて、しかも牛ほどにもでかいやつがいる。 そしてねずみの群れにうっかり落っこちた友人がバリバリ食われるのだった。
あれはあれ、現実は現実と冷静に考えられるのはしかし昼間だけだ。だから、直接手を下すしかない、と前向きに決心を固められたのも社員食堂でうどんを食べているときだった。面と向かってゴキブリと対峙するのを考えただけで寒気がするが、やらなきゃどうする、と覚悟する。
このままだとそのうちアパートに帰らなくなり、ビジネスホテルに住み始めかねなかった。そんな生活1ヶ月で破綻する。恋人ができないまま30年が経ってしまったのも意気地のなさに一因があることは重々承知していたので、この機に弱点を克服すれば、彼女の1人くらいはできるんじゃないかとも思い、少し闘志もわいてきた。
考えてもみる。 なにもえたいのしれない老婆が長い舌で油をぺちょぺちょなめているってわけじゃない。ただのゴキブリ。それが少々でかかろうが、頭脳明晰であろうがしょせん所詮虫。
夜がふけた。いつものように部屋のスイッチを切る。床につく。音はすぐには聞こえてこない。それが習性なのか、電気が消えてしばらくしてから活動するようだ。闇の中にずっと耳をそばだてる。小1時間ばかり過ぎたころ、かすかな音をとらえた。
枕もとにおいてあった殺虫剤の缶に手をのばす。逃げられたら困ると部屋の電気はつけないことにしてある。ペンライトのスイッチを入れる。床を丹念に照らしてどこにもゴキブリがいないことを確かめてから、静かに、ゆっくりと台所へ近づく。汗が背中を流れ落ちる。額から流れたのは目にもしみる。
音はまだ聞こえている。流しを照らすがいない。もとよりステンレスをひっかく音じゃないのはわかっている。流しの下の戸棚でなにかをかじっているに違いない。危うく「ねずみの話」を思い出しそうになり、頭をふってしめだす。まえもって用意していたシチュエーションに自分をはめ込む。映画に出てくる爆弾処理班。殺虫剤がオレの拳銃。
腰を、落とす。片ひざを立てたままいつでも撤退できる姿勢を取る。父の言葉がよぎる。 「ゴキブリは光に向かって飛んでくるんだな」 顔に向かって飛んでくる? ペンライトをくわえた口のすき間からもぐり込む? 細く硬い爪が舌をひっかく? 手がふるえて光の輪がぶれた。
ちくしょう、専門の業者を呼びたい、料金は高くてもかまわないなどと軟弱な現実逃避に走る心を殺し、すべては妄想だと気合を入れなおす。たかがゴキブリ1匹に、と自分を叱咤する。週末にはエアコンを購入する予定だ。ゴキブリのいない快適な部屋でゆっくりと眠りたい。 いや、必ず眠ってみせよう。たかだかゴキブリ1匹だ。
缶を持ち直した。噴射口をすでに向けておく。ペンライトを口でくわえる。耳をすませると確かにまだ音がする。緊張で腹がしぼられる。缶を持っているのとは反対の手を扉のつまみにかける。噴射ボタンの指に力を込める。1、2、3と胸のうちで数えて勢いよく扉を開けた。
全身毛だらけの小さな女の子がこっちを見て笑ってた。
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